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軽自動車の 今昔

えんしゅうどっとこむ 代表 島 賢司
平成12年7月16日
(大正15年生まれ)
昭和28年4月(1953年)に 取締役会において 四輪車の研究を進めることが決定され 自動車研究室と言う プロジェクトチームが編成された。 チーフとして 初代社長 鈴木 道雄氏の第二娘婿の 当時 取締役 鈴木三郎(故人)がなり スタッフとしては 稲川誠一(スズキ 元会長)と 私 島賢司 及び 内山久男(スズキ 元会長)と川島 勇(スズキ 顧問)や 鈴木 弘(故人)が任命され スタッフ全員20代で 情熱を 傾けた。
昭和30年7月(1955年)運輸省名古屋陸運局からSS型(セダン)SL型(ライトバン)SP型(ピックアップ)3車種の認定を受けることができた。この年の 5月に通産省の 国民車構想 なるものが提唱され、この指とまれとばかりに 民間の今で言うベンチャー企業に 課題を提起したものだった。
そこで当社は 昭和29年(1954年)に あの カブト虫風の『フォルクスワーゲン』とドイツ車の『ロイド』と 波トタンで作ったようなフランスの『シトロエン2CV』を 参考車として 購入し 研究に入った。
当時も 欲が深く 一つのシャーシで セダンも ライトバンも トラックも共通できる フロントエンジン フロントドライブ すなわち FF方式を採用することとし ドイツのロイドを中心にして研究に入った。
エンジンキャパシティが360CCであるから 1にも2にも 軽量化がどのパーツにも 要求されたので シャーシフレームは バックボーン型モノコックボデーとした。 乗り心地を良くする為 コイルスプリングの四輪独立懸架方式と言う 当時としては 贅沢なものを採用した。
ドライブシャフトのユニバーサルジョイントはわが国では 初めての等速ジョイントが使用された その他部品についても 軽自動車に合うものはなく 独自で設計せざるを得なかった。
フロントグリルなどは 型を作り アルミ鋳造で 独特なものを作ったことが 思い出される。
これ等の スズキの技術は 織機製造<スズキの旧社名は 鈴木織機 鈴木自動車工業>の(自由な形状作り) オートバイ<コレダ号>製造の軽量化<その後 浜松?のスズキ(可美村)・ヤマハ(浜北市)・ホンダの3社は 国際オートバイレースに 参加して優勝を3社で独占>などの ノーハウが生かされたためである。
当時は 専用のテストコースはないため 浜名湖一周が一番適していた 道路は 今では すべて舗装されているが 当時は 洗濯板<ブリキのバケツとセットで使用した木の板>のような 悪路<砂利が敷いてあれば、良い方・砂利道>であり足回りには 過酷なもので、前輪がはずれて 芋畑に転がり込んだり、エンジンが焼け付いたりしたものだった 従って 何時も 2台で 走ったものだった。今のように携帯電話があれば連絡が早くとれたと思うが 当時の浜名湖周遊道路は 田んぼや 畑ばかりで民家は少なく 民家へ行っても 電話がなく 苦労したことが 思い出される。
当時ベンチャーとして 昭和28年(1953年)頃は 『オオタ号』 『テルヤン号』 『オートサンダル号』 『NJ1号』 『フライングフェザー号』 など 多くの種類のものがみられたが いずれも 試作車の域を 脱せず 企業化できなかった 軽自動車として市販されたのは スズキの 『スズライト』 だけだった。
スズライトの立ち上がり当時の価格は スズライトセダンが45万円(物品税15%込)・ライトバン38万円(物品税なし)・トラック35万円(物品税なし)であった。スズキのユーザーは税制を考え ライトバンが主力商品となった。 後に 『47万円アルト』が発売される。また 麒麟麦酒が発泡酒メーカーとなるのは世紀末と遅れる。
軽四輪車が市民権を得て 自動車業界の中で 市場競争が 激化し 本格的な様相を呈してきたのは、昭和39年(1964年)頃である その当時の 業界は 次の通りである。
マツダ B36(東洋工業 現マツダ)フォード
ハイゼット ハイゼットキャブ (ダイハツ工業)トヨタ
サンバー (富士重工)
三菱 360 (新三菱重工 現三菱自動車)
コニー 360 (愛知機械工業)
ホンダ 360<伝説の NVは後継モデル> (本田技研工業)
ホープスター (ホープ自動車)
かえり見れば 昭和30年(1955年)7月に第一号車完成させ その後 月産3〜4台が続き 月産30台になったのは 昭和31年(1956年)2月のことであった。
その当時のスズライトSF型と 現在の生産車 例えば ワゴンR と比べてみれば 性能 仕様 外観 乗り心地 使い易さ 耐久性は その差以上に 大きな進歩 飛躍を見出すことができる。
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